自分を使い切って生き抜く事。それは健康を「攻める」という事。

命と向き合う為に整える

  • 2024年11月27日
  • 2024年11月28日
  • 解説

「できる事」が沢山ある

「痛みを改善させる」施術ではなく「命と向き合う為に整える」施術。

私は「全身調整」をそう位置付けています。

私も命を意識した経験があります

私は「命の終わり」を20代後半で意識しました。まさかの20代後半です。

20代半ば、突然のヘルニアで寝たきり状態になった私は人生に絶望をしました。ですが「命の終わり」までを意識した訳ではありません。

その時は「車いす生活」が頭によぎり、パラリンピックの種目を探していた程度です。「命は続く」が大前提としてあり、それを意識する事すらありませんでした。

問題はその数年後です。

20代後半で甲状腺に腫瘍がある事が判明しました。大きさは4.5㎝。気付いた時には「癌じゃないか」と背筋が凍りました。慌てて保険の確認をし「遺書」まで用意したくらいです。※細胞診の結果、大きな良性腫瘍でした。

私はここで「命の終わり」を初めて意識しました。「自分がこの世の中からいなくなるかもしれないのか」と。

  • 頭が真っ白
  • 愛犬の世話はどうするの?
  • 父親になれないの?
  • 貯金したお金、意味ないじゃん
  • 何の為に働いてきたの?
  • 修行した意味無いの?
  • 人生ってこんなもの?

気持ちの整理が全くつきません。それくらいに「本来ならあるべきじゃないモノ、それがそこにある恐怖」は凄まじいです。

モーガン・フリーマン主演の映画「最高の人生の見つけ方」を参考にしようと鑑賞したものの「もう十分生きてるじゃん、私はまだ20代だぞ!」と虚しさだけが広がり。

悪性か・良性かの前に「腫瘍がある」時点でもう不公平感を爆発させていたのです。ヘルニアで散々苦しんだ後はこれかよと。

辿り着いた道はヘルニアの時と同じ

そうしてやさぐれていた私ですが、最後に辿り着いた場所はヘルニア時代と同じ場所でした。

「今、できる事を全てしよう」

腫瘍自体は「取る」以外に何もできません。だからといって何もしないで手をこまねいているのか。

「ヘルニア」や「腫瘍」そのものに関しては「できる事は無い」でしょう。外科的処置が必要です。

ですが「それ以外」に目を向ければ話は別です。

私達の健康を形作っているもの。それは「血液循環」「リンパ循環」「ホルモン分泌」「自律神経の安定」「栄養補給(食生活)」「適度な運動」「適切な生活習慣」など、多岐に渡ります。

そしてその殆どに「働きかける事ができる」のです。

「自分ではどうしようもない事」に意識を向けるよりも「自分で何とでもできる事」に意識を向けて取り組む事。

「自分で何とでもなる事」は全て綺麗に整え切ってしまう事。

人事を尽くそう。そして天命に委ねよう。

きっと、それが私達にできる最良の選択です。

命を使い切る

 

 

その先に何が起ころうとも、それはもう「自分の手の外側」の話であって受け入れるしかない。きっと遺伝子レベルの話になる。

だから「できる事はやり切ってから考える事」

人事を尽くして天命を待つ。

無病息災が理想です。でも一病息災でもいいじゃないですか。私なんて二病息災です。

ヘルニアも甲状腺腫瘍も、一般に比べて随分と大きいサイズでした。でも、それ以外(身体能力・血液検査等)は今のところ一般と比べて健康的です。腫瘍マーカー以外で引っ掛かった事がありません。

草履で100kmをテクテク歩く事もできています。23年度は月に1,000kmも歩いていました。

「今のカラダを100%使いこなす」

これだけで開ける道があります。私達は持って生まれたフルパワーを発揮できる機会を失いました。ですが脳と同じで「使う事なく埃を被っている領域」が沢山あるのです。

言葉は少し大袈裟ですが、

「命を使い切る為に整える」

「痛みを取る施術」ではなく「整える施術」は本来そうあるべきではないか。

私はそう思います。

 

ヘルニアによって20代半ばで肉体の「ピークアウト」を迎えました。どれだけカラダを磨き上げても「一ヵ所のヘルニア」がブレーキポイントとなり力を発揮できません。力が流れたがっているのに、カラダが耐えられないのが痛い程伝わってきます。全身が如何に繋がり合っているのかをカラダを通して感じます。